夏目漱石の生涯と功績を分析!年表で見る生い立ちと不朽の文学

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明治から大正時代にかけて活躍した夏目漱石は、日本を代表する小説家・英文学者として知られています。

本記事では、夏目漱石の生い立ちから作家人生、代表作品までを紹介していきます。

ペンネームの由来や本名の意味、波乱万丈の幼少期と養子体験、東京帝国大学時代と英文学への道のり、イギリス留学と文学の究明、そして神経衰弱との闘いなど、漱石の人生に秘められた様々なエピソードを紐解きました。

日本文学に大きな足跡を残した漱石の生涯を振り返ることで、その作品の奥深さをより深く感じ取ってもらえるとうれしいです。

早速いってみましょう。

目次

夏目漱石の全作品と生涯年表

夏目漱石、その生涯を、まずは時系列で紹介します。

彼のすべての作品とともに、その生涯を年表にしてみました。

  • 1867年:東京にて金之助として生まれ、9歳まで榎本家の養子として過ごす。
  • 1884年:東京帝国大学に入学、英文科で学ぶ。
  • 1890年:東京帝国大学を卒業後、松山中学校や第五高等学校などで英語教師として勤務。
  • 1900年:英国留学。
  • 1902年:日本に帰国後、東京高等師範学校で教鞭をとる。
  • 1903年:『我輩は猫である』を発表し、文学界に登場。
  • 1905年:『坊っちゃん』を発表。
  • 1906年:『夢十夜』を発表。
  • 1907年:『吾輩は猫である』が完結。『文鳥』を発表。
  • 1908年:『三四郎』を発表。
  • 1909年:『それから』を発表。
  • 1910年:『門』を発表。
  • 1911年:『彼岸過迄』を発表。
  • 1912年:『行人』を発表。
  • 1914年:『こころ』を発表。
  • 1915年:『道草』を発表。
  • 1916年:『硝子戸の中』を発表。同年、心臓病により東京で死去。

※最後の作品と言われることもある『明暗』は彼の死去した1916年に未完のまま発表されたため、年表から除外しています。

こうして年表にすると、毎年のように作品を発表してますよね。スゴいです。

次の章から、彼の生涯の出来事を、エピソードを交え詳しく解説していきます。

夏目漱石とは?本名とペンネームの由来

画像はイメージです

夏目漱石って名前じゃなくてペンネームなんです。彼の本名は夏目金之助です。

なぜこのペンネームを使うことになったのか、紐解いていきます。

ペンネームの由来

夏目漱石のペンネームは、「漱石枕流」という四字熟語をもじったもので、その意味は「失敗を認めず、負け惜しみする人」という意味です。

「漱石枕流」は中国の故事です。

この故事では、石で漱ぐことができると思っていた男が、実際は石で口を傷つけたという話があります。

漱石はこの故事から「負け惜しみする人」という意味を持つ名前として選びました。

本名の意味

一方、夏目金之助という本名には彼の生まれた庚申の日にちなんで「金」という文字が含まれており、厄除けの意味も込められています。

彼が夏目漱石というペンネームを使用する際には、負け惜しみする性格やユーモア精神が反映されています。

ペンネームと本名の意味

漱石のペンネームは「七艸集」の評論を書いた際に初めて使用されました。

その後、漱石という名前は彼の作品に常に添えられることとなりました。

夏目漱石のペンネームと本名の選び方は、彼のユーモア精神や負けず嫌いな性格を反映しています。

これは彼の作品や人物像を象徴するものと言えます。

ペンネームと作風

夏目漱石のペンネームと本名の由来は、彼の作品に込められた思想や人間性をより深く理解することができるでしょう。

彼の負け惜しみしない性格やユーモア精神は、彼の作品にも表れており、彼のペンネームと本名の意味を知ることで、彼の作品の奥深さを感じることができます。

波乱万丈の幼少期と養子体験

画像はイメージです

夏目漱石(なつめそうせき)の幼少期は決して平穏ではありませんでした。

彼は1867年に東京都新宿区喜久井町で生まれましたが、生まれてすぐに里子に出されるという運命が待ち受けていました。

彼の幼少期は、実の両親ではなく祖父母と思い込んで暮らしていたと言われています。

幼い頃の漱石は苦難に直面しましたが、それでも勉学に励みました。

9歳の時には夏目家に戻りましたが、家庭環境は安定しなかったようです。

養子として育った経験は、漱石の内面的な成長や芸術的な表現力に大いに貢献しました。

彼の作品には、孤独や家族の絆、他者とのつながりといったテーマが多く見られます。

漱石の小説や詩には、彼自身の体験から生まれた深い感情が込められています。

この波乱万丈の幼少期と養子体験は、漱石の作家人生の基盤となりました。

彼は苦難を乗り越えた独自の視点を持ち、人間観察力や洞察力を発揮しました。

彼の作品は多くの読者に伝わり、幼少期の苦難と養子体験が彼の創作活動に与えた影響を解き明かしています。

東京帝国大学時代と英文学の道へ

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夏目漱石は、東京帝国大学(現在の東京大学)で英文学を専攻しました。

彼の大学時代は波乱に満ちており、多くの試練を経験しましたが、英文学に対する情熱を持ち続け、作家としての道を歩み始めるきっかけとなりました。

漱石が東京帝国大学に進学したのは、1884年(明治17年)のことでした。

彼は大学予備門を経て入学しましたが、予備門時代から優れた学力を発揮し、特に英語の才能は突出していました。

大学予備門時代の漱石は、同じく才能ある友人たちと共に学ぶ機会を得ており、互いに切磋琢磨することで成長していきました。

大学時代の漱石は、まだ文学の道を志してはいませんでした。

彼は建築家になる予定でしたが、ある友人から「日本ではセント・ボールズ大寺院のような建物はつくれないから、まだ文学の方が生命がある」と言われ、文学への道を選ぶことを決意しました。

この決断は、彼の人生に大きな転機をもたらすことになりました。

東京帝国大学での英文学の学びは、漱石にとって非常に重要でした。

彼は英文学を通じて西洋文化に深く触れ、その中から自身の作品に影響を受けることとなります。

また、大学での学びは彼の創作活動にも大いに役立ちました。

大学時代の漱石は、英文学を学ぶだけでなく、俳句も積極的に詠んでいました。

彼は正岡子規との交流を通じて俳句の技術を磨き、多くの俳句を作り上げました。

この時期の俳句作品は彼の文学活動の一環となり、後の作品にも影響を与えることとなりました。

東京帝国大学時代の漱石は、英文学と俳句の両方に情熱を注ぎながら、学業にも励んでいました。

彼の学生時代は試練に満ちていたものの、その経験が彼の作品に独自の視点と深みを与えることとなりました。

大学卒業後も、彼は英語教師としての道を歩んでいくことになりますが、東京帝国大学時代の学びが彼の作家人生の礎となりました。

これが漱石の東京帝国大学時代と英文学の道への道程であり、彼の文学活動における重要な一章です。

彼の情熱と努力は、後の作品に色濃く反映され、日本文学の歴史に名を刻むこととなりました。

イギリス留学と文学の究明

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夏目漱石は、日本の文学界において重要な地位を占める作家として知られています。

その文学の才能や深い思索は、彼がイギリス留学を経験したことによってさらに磨きがかかりました。

イギリス留学の背景

1900年、漱石は日本の文部省から英語研究のためにイギリス留学を命じられました。

当時、彼はすでに教師として働いており、英文学の研究に違和感を抱いていました。

そこで、独自の視点で文学を研究するために、イギリス留学を選択したのです。

英文学の探究

漱石がイギリス留学中に行った最初の行動は、ロンドンにある大英博物館の近くの下宿に入ることでした。

そして、シェークスピア学者であるクレイグ博士から個人授業を受け始めました。

しかし、漱石は次第に「文学とは何か」という大局的な視点で研究すべきだという考えに至りました。

不安と苦難の日々

ロンドン留学中の漱石にとっては「尤も不愉快の二年」と振り返るほど、つらい日々でした。

留学費が少なかったために経済的な苦労を強いられたり、異国の地での孤独感や不自由さに悩まされたりしました。

さらに、帰国の直前には親友の子規の訃報が届くなど、辛い出来事が重なりました。

神経衰弱との戦い

漱石のイギリス留学中の神経衰弱の悪化は深刻でした。

周囲の人々や文部省も彼の精神の異常を疑うほどであり、一時は帰国を命じられることもありました。

漱石は留学中の苦難と孤独を経て、独自の文学観を確立し、帰国後の作品に反映させることとなりました。

イギリス留学で得たもの

イギリス留学は夏目漱石にとって苦難の時期でしたが、彼の文学的視野の広さや思考の深さを深めることになりました。

留学中の経験や苦悩は彼の後の作品に大きな影響を与え、日本の近代文学の発展に貢献しました。

作家人生と代表作

夏目漱石は人生において多くの困難を乗り越えていきました。

ここでは、その中で生まれてきた作品の一部を取り上げます。

神経衰弱と文学活動

漱石は神経衰弱という精神的な問題に苦しんでいました。

この病気が彼の人生にとって苦難の連続となったが、逆にその苦しみが彼の文学活動につながりました。

俳人そして小説家としても知られていた高浜虚子に創作を勧められたことがきっかけで、漱石は『吾輩は猫である』の執筆を開始しました。

これが漱石の処女作であり、大きな成功を収めるきっかけとなった作品です。

ただし、この作品は、ドイツの作家「エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン」の『牡猫ムルの人生観』に酷似した部分が多く、処女作と言うには、ちょっと疑問もあります。

個人的には、『吾輩は猫である』で文才に目覚め、2作目の『倫敦塔』(ロンドン塔)から作家人生が本格始動したと捉えています。

気になる方は、「牡猫ムルの人生観」を読んでみてください。冒頭から「吾輩は猫である」と同じでびっくりするはず。今なら大炎上ですね。

牡猫ムルの人生観に似ていることを友人から指摘された漱石は、主人公「吾輩」を水がめに落としてサクッと連載をやめてしまったという話もあります。

著:E・T・A・ホフマン, 翻訳:酒寄 進一
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代表作

ここからは、文豪である夏目漱石の代表作を紹介します。

1. 『坊っちゃん』

  • 発表年: 1906年(明治39年)
  • 内容: 東京の都会育ちで正直で直情的な青年教師が、地方の学校での騒動や人間関係を描く。ユーモアとともに正義感あふれる物語として親しまれる。

2. 『草枕』

  • 発表年: 1906年(明治39年)
  • 内容: 「非人情」をテーマに掲げ、旅人である画家が山中の温泉地で出会う女性や自然との関わりを通じて、美や芸術についての考察を深めた作品。

3. 『三四郎』

  • 発表年: 1908年(明治41年)
  • 内容: 熊本から東京に出てきた青年・三四郎の青春を描く。恋愛や人間関係、時代の変化が描写されており、「前期三部作」の一つ。

4. 『それから』

  • 発表年: 1909年(明治42年)
  • 内容: 東京に住むインテリの主人公・代助が、友人の妻との恋愛を通じて道徳や社会規範と葛藤する。「前期三部作」の第二作。

5. 『門』

  • 発表年: 1910年(明治43年)
  • 内容: 主人公・宗助が静かな日常生活を送りながらも、内面で抱える葛藤や宗教的な救いを求める姿を描く。「前期三部作」の最後の作品。

6. 『彼岸過迄』

  • 発表年: 1912年(大正元年)
  • 内容: 複数の登場人物の視点を交えながら、近代日本の人間関係や心理を描写する。「後期三部作」の第一作。

7. 『行人』

  • 発表年: 1912年(大正元年)
  • 内容: 兄弟間や夫婦間の複雑な心理を掘り下げた作品。「後期三部作」の第二作。

8. 『こころ』

  • 発表年: 1914年(大正3年)
  • 内容: 「先生」と呼ばれる人物の手記を通じて、人間のエゴイズムや孤独、近代社会の精神的な空洞を描く。「後期三部作」の代表的作品。

9. 『明暗』

  • 発表年: 1916年(大正5年、未完の遺作)
  • 内容: 主人公・津田の結婚生活や人間関係を通じて、心理的な葛藤や近代的な価値観を描いた漱石最後の作品。

前期三部作、後期三部作については、別の記事でも取り上げています。よかったらみてください。

漱石山房記念館

夏目漱石についてもっと知りたい!という方は、新宿区立漱石山房記念館を訪れてみてはいかがでしょうか。

四半期ごとにテーマを変えた展示もあり、シーズンごとに楽しめます。

主な所蔵資料として、「道草」や「明暗」の草稿もあります。

毎週月曜日が休館日なのでご注意を。

夏目漱石の功績

夏目漱石は波乱万丈の人生を経験しながらも、その困難を乗り越え、日本文学史に深い足跡を残した偉大な作家です。

彼のペンネームや本名の由来、幼少期の養子体験、東京帝国大学時代の英文学の探究、そしてイギリス留学中の苦悩など、彼の人生は作品に大きな影響を与えました。

代表作『吾輩は猫である』や『こころ』をはじめとする数々の名作は、漱石の独創的な表現と洞察力から生まれたものです。

作品だけ読むのも面白いのですが、生まれた背景がわかると、物語がより楽しめるはずです。

夏目漱石の作品が気になった方は、ぜひ各作品を読んでみてください。

講談社の「胃弱・癇癪・夏目漱石」は、神経衰弱で悩んだ漱石が、いかにして文学と向き合ったかが考察されていて面白いです。ぜひこちらも読んでみてください。

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