今回は、日本近代文学の重鎮、森鴎外の生涯と作品の数々を紹介していきます。
森鷗外(1862-1922)は、日本の小説家、評論家、医師、軍医総監。明治・大正期を代表する文学者で、西洋文化を取り入れた知識人としても知られています。
ドイツ留学を経験し、西洋文学や思想の影響を受けつつ、日本独自の文化や倫理観を探求した文豪です。
代表作の『舞姫』は、教科書に採用されることも多いので、すでに学生時代に出会っている方も多いのではないでしょうか。
他の代表作として『雁』『高瀬舟』『山椒大夫』なども有名です。
この記事では、森鴎外の生涯を幼少期から晩年まで、年表も交えて解説していきます。
それでは、いってみましょう。
森鴎外 – 天才児から医師・作家への道のり

【幼少期から青年期】
森鴎外の本名は森林太郎。
1862年1月19日、津和野藩(現在の島根県)の典医の長男として生まれました。
森鴎外の人生は、彼が幼少期から医師としての優れた教育を受けたことから始まります。
藩に仕える医者の息子として、幼い頃から論語や孟氏などの漢書やオランダ語を学び、10歳の頃にはドイツ語も学び始めます。
当然、医学の道を進むこととなりますが、英才教育を受けていた鴎外は、旧第一大学区医学校(現東京医学校)に2歳も偽り、1872年、11歳で入学。
さらに15歳で東京大学医学部に入学し、1881年、19歳で卒業するという天才(秀才)ぶり。
その年の12月には、陸軍に入隊し、東京陸軍病院に勤務することになります。
ただ、彼の中では、軍医は腰掛け程度に考えており、本当のところは、作家(物書き)になりたい気持ちが強かったようです。
妹(小金井喜美子)の回想記によれば、職場に通いながらも、庭の写生や、寄席の見物が好きだったそうです。
【ドイツ留学】
入隊から3年が過ぎ、衛生学を修めると、1884年22歳のときドイツ留学を命じられます。
この留学経験は彼にとって非常に重要であり、医学だけでなく、社交界や芸術の世界に触れる機会を与えました。彼は留学時に多くの人々と出会い、文学的な交流を深めました。
- 1884年ライプツィヒに滞在
- 1885年ドレスデンに滞在
- 1886年ミュンヘンに滞在
- 1887年ベルリンに滞在
- 1888年9月8日帰国
このドイツでの4年間の経験が彼の小説家としての才能を開花させ、小説の道へ進むきっかけとなりました。
なお、舞姫は帰国直後に、来日していたドイツ人女性との出会いが題材のひとつになっています。
【作家への道】
帰国した鴎外は、仕事の傍ら、1889年には読売新聞で「小説論」を発表し、続けて、弟三木竹二と共同で「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)の日本語訳も発表しました。
その後も筆は止まらす、1809年1月舞姫の発表に至ります。
【戦争の経験】
森鴎外は軍医として複数の戦争に従事し、その経験が彼の人生や文学に大きな影響を与えました。主な戦争経験は以下の通りです。
清との戦争が終わったのち、森鴎外は日本陸軍の軍医として台湾に勤務し、戦場での衛生環境の改善や伝染病対策に取り組みました。この経験は、医学的な見識を深めただけでなく、戦争の実態や人間の生死について考えるきっかけとなりました。
1904年、第2軍軍医部長として戦場に関与し、戦争における医療の重要性をさらに強く認識しました。
1907年には、陸軍省医務局長に就任。
この時期に見聞きした人々の苦しみや死生観が、後の文学作品、特に『高瀬舟』や『興津弥五右衛門の遺書』などのテーマに影響を与えています。
1909年には、作家活動を再開、文芸雑誌「スバル」に、「半日」、「鶏」、「ヰタ・セクスアリス」などを掲載しました。
【作家として】
軍医のトップとして仕事は続けながらも、執筆活動は熱意をもったまま続けていきます。
当初は、鴎外の思想を反映した作品や戯曲などを執筆していましたが、日露戦争での乃木陸軍大将の殉死に影響を受け、歴史小説に舵を切ります。
そうして生まれたのが、「阿部一族」や「山椒大夫」です。
晩年に発表した随筆「空車(むなぐるま)」は、そこまで一般的ではありませんが、鴎外の研究題材として有名です。
【晩年】
陸軍を退いた晩年は、宮内省に入り、帝室制度審議会御用掛に就任します。
その後、帝国美術院(現在の日本芸術院)初代院長に就任し、新しい元号の考案に着手しますが、その途中で老いと病のため、倒れることとなります。
そうして、死後出来上がったのが「元号考」であり、「昭和」の元号案です。
鴎外の、遺言と墓石は、逸話でもあり有名です。
冒頭の「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」は特に知られていて、鴎外という知れ渡った名前も、地位も名誉もいらない、ただの森林太郎として死にたい、という気持ちが伝わってきます。
この遺言により、鴎外の墓石には「森林太郎」の名前しか入っていません。
森鴎外の生涯年表
森鴎外の生涯を年表としてわかりやすくまとめました。
生誕と幼少期
- 1862年(文久2年)
2月17日、石見国津和野(現在の島根県津和野町)に津和野藩医・森林恒の長男として生まれる。 - 1872年(明治5年)
10歳で津和野藩校「養老館」に入学。 - 1876年(明治9年)
14歳で上京し、東京大学予備門(後の第一高等学校)に入学。
学問と医師としての道
- 1877年(明治10年)
東京大学医学部に入学(15歳)。ドイツ語を習得し、医学を学び始める。 - 1881年(明治14年)
19歳で東京大学医学部を首席で卒業。陸軍軍医となる。 - 1884年(明治17年)
22歳でドイツ留学(ベルリン、ライプツィヒなど)。医学だけでなく文学や哲学にも傾倒する。 - 1888年(明治21年)
26歳で帰国。陸軍軍医学校で教鞭を執る。
文筆活動の開始
- 1889年(明治22年)
雑誌『しがらみ草紙』を創刊。翻訳や評論を中心に執筆活動を開始。 - 1890年(明治23年)
小説『舞姫』を発表し、文学界で注目を集める。
家庭と仕事の両立
- 1893年(明治26年)
31歳で赤松登志子と結婚(後に離婚)。長男が生まれる。 - 1894年(明治27年)
日清戦争に従軍し、軍医として活動。 - 1902年(明治35年)
荒木志げと再婚し、4人の子供たちにも恵まれる。
文学と軍医としての活躍
- 1909年(明治42年)
長編歴史小説『阿部一族』を発表。以後、歴史小説の執筆に力を入れる。 - 1912年(明治45年・大正元年)
大逆事件に関連し、軍医総監として上官に反対意見を述べたことで知られる。
歴史小説『高瀬舟』を発表。 - 1916年(大正5年)
文学作品『渋江抽斎』を執筆開始。
晩年と死去
- 1922年(大正11年)
7月9日、死去(享年60)。
腎臓病(慢性腎炎)を患い、病状が悪化し腎不全に陥った。
森鴎外の主な作品

森鴎外は日本近代文学の巨塔と呼ばれる作家であり、数々の名作を生み出しました。彼の作品は多岐にわたり、様々なジャンルやテーマを扱っています。以下に、森鴎外の代表作をいくつかご紹介します。
舞姫(まいひめ):1890年
『舞姫』は、鴎外がドイツ留学中に執筆されたものであり、発表は帰国後。彼の代表作の一つとされています。物語は歌舞伎舞踊の世界に入り込んだ美しい舞姫と、彼女を愛する男性たちの悲劇的な愛の物語です。
鴎外は、帰国後に「舞姫」に続き、「うたかたの記」「文づかひ」を続けて発表。3作品とも舞台はドイツでることからドイツ三部作(独逸三部作)と呼ばれています。
ヰタ・セクスアリス(ウィタ・セクスアリス):1909年
『ヰタ・セクスアリス』は、鴎外の中では異色の作品とも評され、恋愛感情や人間の心理を描いています。物語は哲学者「金井湛(かねい しずか)」が、高校を卒業する長男への性教育の資料として本人の体験を綴る物語。
本作は、性的な表現が多く、文芸誌「スバル」7月号に掲載されたものの1ヶ月後に発売禁止となりました。森鴎外本人も上官から懲戒処分を受けています。とはいえ、直接的な性の表現は描かれていません。
雁(がん):1911年
『雁』は、鴎外の代表作の一つであり、恋愛にたどり着けなかった女性の恋心を詳細に描いています。不運にも命を落とす雁になぞらえて、恋のはかなさを表現しているところがとても心に響く物語。
本作「雁」は映画やテレビドラマでも度々映像化されている、有名な作品です。
阿部一族(あべいちぞく):1913年
『阿部一族』は、鴎外の歴史小説として知られる作品です。江戸時代の庶民を描き、阿部一族の親子の人間模様を当時の社会情勢を絡めながら描かれています。
この「阿部一族」は、史実とは異なる部分はあるものの、江戸時代初期に肥後藩の権力者でもあった阿部一族が名誉を守るため全滅してしまった事件を元にした創作小説となっています。
山椒大夫(さんしょうだゆう):1954年
『山椒大夫』は、鴎外が生前に発表していたものの中で最後に刊行された小説です。江戸時代の浮世絵師である山椒夫の生涯を描いており、鴎外が得意とした歴史小説の一つです。
元ネタは、日本における中世のころの「語りもの芸能」であった「説経節(せっきょうぶし)」の演目「さんせう太夫」です。
テレビドラマや映画化もされている有名な作品でもあります。
心中(しんじゅう):1971年
『心中』は、鴎外の死後に発表されたものであり、心中を描いた作品です。物語は相思相愛の若いカップルが自殺を決意するまでの過程を描いています。
以上が森鴎外の主な作品ですが、彼の作品は多岐にわたりますので、ぜひ一度手に取って読んでみてください。
鴎外文学の特徴 – 人生経験に裏打ちされた物語

1. 多彩なテーマとジャンル
森鴎外は、短編から中編、歴史小説、翻訳文学、評論、戯曲まで幅広いジャンルで活躍しました。
ただし、長編と呼べるものが少なかったの特徴的です。(※長編は雁が有名)
- 個人と社会の葛藤
近代化の中で生じる個人の自由と社会の規範や伝統との衝突を描く。
代表例:『舞姫』『阿部一族』。 - 歴史への関心
日本の歴史や文化に題材を求め、過去の人物や出来事を通じて普遍的なテーマを追求。
代表例:『高瀬舟』『山椒大夫』。 - 人間心理の深い洞察
登場人物の内面を緻密に描写し、精神的な葛藤や複雑な感情を探求。 - 倫理や道徳の問題提起
社会の中での正義や道徳について考察し、読者に問いかけるような内容。
代表例:『高瀬舟』。
2. 緻密な描写と美しい文体
鴎外の文体は、日本語の美しさを生かした緻密で流麗な表現が特徴です。
また、舞姫は擬古文で書かれていることが有名で、しばしば高校の教科書にも掲載されます。
- 簡潔で端正な文体
言葉遣いが正確で洗練され、無駄がない。 - 漢文調の影響
特に歴史小説や評論において、漢文的な表現やリズムが使われている。 - 日本語と外国語の融合
ドイツ留学の影響もあり、日本語の中に西洋的な思想や表現を取り入れる。
3. 思想と背景
ドイツで学んだ鴎外の作品は、日本の伝統文化と西洋の思想が融合しています。
- 西洋文化の影響
ドイツ留学の経験が作品全体に影響を及ぼし、西洋的な個人主義や人間観を反映。 - 東洋的価値観との調和
日本の伝統や倫理観を重視し、西洋文化との対比の中で独自の視点を提示。 - 理知的・客観的な視点
感情的な表現を控え、理性的で冷静な筆致で描く。
4. 作品構造
鴎外の作品は、短編、長編、歴史、戯曲、評論、翻訳など様々な形の作品を発表しています。
それらに、自身の経験と知識を巧みに融合させて作品が完成させています。
- 短編・中編の秀逸さ
鴎外の作品は短編・中編に優れ、物語の中でテーマを簡潔かつ深く掘り下げる。 - 象徴的な結末
結末が読者に解釈を委ねる形で終わることが多く、余韻を残す。 - 歴史とフィクションの融合
歴史的事実を踏まえつつ、文学的な創作を加える。
7. 総括
森鴎外の作品は、文学的な美しさと哲学的な深さを併せ持っています。
また、彼の思想色が強いものが多いのも事実です。
陸軍軍医、小説家、戯曲家、評論家、翻訳家など、幅広く活躍した彼の作品は、その知識の深さに基づく魅力的なものとなっています。
ドイツ留学がもたらしたもの

ドイツ留学の重要性
森鴎外がドイツに留学した経験は彼の人生において非常に重要でした。
彼は留学中に学んだ知識や技術、そして出会った人々から多くの影響を受けました。
ドイツの教育環境や学問の先進性に触れた鴎外は、新たな視点を得ることになります。
ただし、ドイツで学んだ欧州医学や、先進的な価値観は、当時の日本では受け入れがたいものあったことは確かで、論争の火種にもなっています。
特に、ベルリン大学でコッホから近代近代細菌学を学んだことで、衛生学に関してはかなり神経質になっていました。いわゆる潔癖症です。
医学に関する論争は、当時日本がまだ、東洋医学中心であったことが大きな原因で、欧州の先進医療を掲げる鴎外とぶつかり、論争を巻き起こすことになります。
彼の作品への影響
森鴎外のドイツ留学は彼の作品に大きな影響を与えました。
特に、帰国後に執筆された舞姫は、自分の恋愛経験が元ネタとなっています。
また、留学経験と高い語学力により、外国文学の翻訳作品も多数あります。
「即興詩人」、「調高矣津弦一曲」、「ファウスト」などが有名です。
彼の作品には、留学経験を通じて培われた斬新で魅力的な要素が表れています。
また、当時、先進的な事柄に消極的だった日本の中で、自身の主張を書き入れる理想主義に基づく作品づくりは、どこか必然的だったのかもしれません。
とにかく、ドイツ留学が彼にもたらした多様な経験や視点は、彼の作品を紡ぐ上で欠かせないものとなりました。
鴎外の子どもたち(キラキラネーム)
ドイツ留学がもたらしたものの中で特徴的なのがネーミングセンス。
森鴎外の子どもたちの名前はキラキラネームだらけです。
- 森於菟(もり おと)
- 長男
- おと=オットー
- 名前の由来は、中国の古典『詩経』の「虎の子が成人する」という意味の一節から。於菟は「虎」を意味し、父親の期待が込められている。
- 森茉莉(もり まり)
- 長女
- まり=マリー
- 「茉莉」はジャスミンの漢名であり、美しい花のイメージを名前に込めている。
- 森杏奴(もり あんぬ)
- 次女
- あんぬ=アンヌ
- フランス風の響きを持つ名前。「杏」は日本的な要素、「奴」は西洋的な響きを組み合わせた、ユニークな名前。
- 森類(もり るい)
- 次男
- るい=ルイ
- 「類」は「たぐいない」という意味を含み、父親の思想や文学性を反映した名前。
- 森不律(もり ふりつ)
- 三男
- ふりつ=フリッツ
- 「不律」の意味については、諸説あるが、森鴎外の遊び心と哲学的思考が表れている。
鴎外は、自身の名前「林太郎」が、なかなかドイツで受け入れてもらえなかったことで、子どもたちには海外でも通用する名前をつけたかったそうです。
森鴎外記念館
森鴎外を深く知りたいなら、文京区立森鴎外記念館を訪れてみるのはいかがでしょうか?
立地している文京区は、鴎外が半生を過ごした土地です。
定期的に開催される展示のイベントなどもあり、楽しめるでしょう。
2025年 1月 18日 ~ 2025年 4月 6日まで、「鴎外の妹・喜美子の家族 ―森家と小金井家―」の展示がされています。
鴎外の誕生日である1月19日は、なんと展示観覧料が無料です!
まとめ

森鴎外は、軍医としても、言論者としても、論争の絶えなかった人物ですが、その分、作品はその時代には斬新で先進的であり、大きなインパクトを与えました。
軍医として新たな医療体制を訴える姿勢、自分の主張を取り入れる理想主義的な作品、そのどちらも新しい境地を知っているからこその行動なんだと思います。
そしてそれらのベースは、戦争の経験とドイツ留学が基盤になっていることは間違いありません。
鴎外の作品は、小説だけでなく、語学力を活かした翻訳物が多いのも特徴です。
とにかく鴎外を知りたいと思うのであれば、随筆を選んでみるのもよいでしょう。
読書好きとして、読んでおきたい文豪のひとりです。
この記事を読んで、森鴎外が気になった方は、ぜひ1冊、彼の作品を手に取ってみてください。

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