平安時代の宮中で繰り広げられた、文学史に名を刻む二人の女性、清少納言と紫式部。
彼女たちが活躍した同じ時代、同じ空間には、才気溢れる美しい作品だけでなく、複雑な人間関係や対立の影も潜んでいました。
二人の間に実際にどのような交流があったのか、不仲説の真相は?気になる方も多いのではないでしょうか。
この記事では、華やかな宮中の表舞台の裏に潜む、知られざる物語に迫ります。
1. 清少納言と紫式部の生まれた年

清少納言と紫式部の生まれた年については、正確な記録が存在せず、諸説があります。
清少納言の生まれた年の説
- 生年:966年頃(諸説あり)
- 活躍時期:主に一条天皇の中宮・定子に仕えた時期(990年代)
紫式部の生まれた年の説
- 生年:978年頃(諸説あり)
- 活躍時期:一条天皇の中宮・彰子に仕えた時期(1000年代初頭)
上記の生年はあくまでも一例であり、定説が無い状態で、「生没年不詳」というのが正しい表記です。
清少納言と紫式部、どちらも生まれた年について詳細に記載した文献がないため、正確なものは不明です。
年齢的には、清少納言の方がやや年上(約10歳以上年長)であったと考えられています。
つまり、清少納言が宮中で活躍していた頃、紫式部はまだ若年期だった可能性があります。
そのため、同じ宮中で直接的な接点があったとは考えにくく、二人の関係性はもっぱら文学的・文化的な影響を介したものと考えられています。
2. 清少納言と紫式部の宮仕えの時期

清少納言と紫式部は、宮廷で女官として仕えたが、宮仕えの時期には違いがあると考えられています。
清少納言の宮仕えの時期
清少納言は、宮仕えをする前に執筆活動を行い、後に宮仕えを経験した。彼女は約993年頃から定子に仕えるようになり、定子の死去した1000年頃まで仕えました。
紫式部の宮仕えの時期
一方、紫式部は清少納言よりも遅く宮仕えを始めました。
彼女は紀宮(彰子)に仕え始めたのは約1006年頃であり、1012〜1014年頃まで仕えたとされています。
このように、清少納言と紫式部の宮仕えの時期は重なっていません。
清少納言が先に宮仕えを経験し、執筆活動も行っていたのに対し、紫式部は後に宮仕えを始め、宮廷での経験を活かして文学作品を執筆しました。
影響と違い
宮仕えの時期の差異は、彼女たちの文学作品にも反映されています。
清少納言の随筆『枕草子』は、宮廷の日常生活や季節の移り変わりを描きながらも、個人的な感性や思索にも触れています。
一方、紫式部の『源氏物語』は、宮廷の貴族たちの恋愛や政治的な動きを描いた物語です。
清少納言と紫式部の宮仕えの時期の違いは、彼女たちの文学的な側面や視点にも影響を与えたと考えられています。
両者が宮仕えを通じて得た経験や感性は、彼女たちの作品に独特の魅力を与え、日本の古典文学の発展に大きく貢献したといっていいでしょう。
3. 枕草子と源氏物語の執筆時期

『枕草子』と『源氏物語』は、どちらも日本文学史上最も有名な作品の一つです。
ここでは、それぞれの作品の執筆時期についてみていきましょう。
枕草子の執筆時期
『枕草子』は、清少納言によって長徳2年(995年)頃から長保3年(1001年)頃に執筆されました。
清少納言が30代前半から後半に差し掛かる頃に書かれたと推測されています。
具体的な執筆開始時期は不明ですが、清少納言自身が後書きで言及しています。
彼女は宮仕えを始めた正暦4年(993年)以降に執筆を開始し、正暦5年(994年)頃には執筆用の紙を手に入れたと推測されます。
実際には、長徳元年~2年(995年~996年)頃にはすでに宮廷で読まれていたとされています。
清少納言の家から『源経房』という人物が『枕草子』を持ち出し、広まったとされています。
ですから、『枕草子』の執筆開始は正暦4年(994年)~長徳元年(995年)頃であり、長保3年(1001年)頃にはほぼ完成したと考えられています。
源氏物語の執筆時期
一方、『源氏物語』は、紫式部によって長保3年(1001年)頃に執筆が開始され、寛弘5年(1008年)から寛弘7年(1010年)頃に完成しました。
紫式部が30代半ばから40歳の頃に書かれたと考えられています。
具体的な執筆開始時期ははっきりしていませんが、紫式部の夫である藤原宣孝が長保3年(1001年)に亡くなった後に執筆を開始したと考えられています。
また、紫式部は宮仕えを始めたのが寛弘2年(1005年)頃であり、源氏物語は宮仕えの前から書かれていたとも考えられています。
『源氏物語』の執筆が終わった時期については、紫式部の日記によると寛弘5年(1008年)頃に宮廷で製本作業が行われていました。
したがって、寛弘5年(1008年)頃には大筋の執筆が完了していたと推測されます。
その後、宇治十帖と呼ばれる追加の部分が執筆され、寛弘7年(1010年)頃に全編が完成したと考えられています。
5. 清少納言と紫式部の不仲説の理由

清少納言と紫式部は面識がなかったと言われていますが、不仲説が存在する理由があります。
不仲説の理由は以下の2つが考えられます。
不仲説の理由①:紫式部日記の内容
紫式部が書いた紫式部日記には、清少納言に対して酷評が記されていました。
紫式部は清少納言を偉そうで賢いと言いながらも、漢字の間違いが多いなどと批判しています。
このような酷評が不仲説の一要因となった可能性があります。
不仲説の理由②:仕えていた皇后の親同士が対立関係だったから
紫式部は藤原彰子に、清少納言は藤原定子に仕えていましたが、彰子と定子の両親である藤原道長と藤原道隆は仲が良くありませんでした。
彼らは宮中での地位を争っており、対立関係にあったとされています。
このため、紫式部と清少納言の関係も悪かったという説が生まれた可能性があります。
以上が清少納言と紫式部の不仲説の理由です。
ただし、実際のところ彼女たちの関係については正確には分かっていません。
紫式部日記の内容も一方的なものであり、不仲とは言えない可能性もあります。
しかしながら、これらの要因が不仲説の根拠として挙げられていることは確かです。
まとめ

清少納言と紫式部は、日本文学史に大きな足跡を残した二人の偉大な女流作家です。
実際のところ、生まれた年や年齢差、宮仕えの時期にも違いがあり、本当に不仲だったかどうかは、推測の域をでません。
とはいえ、それぞれが独自の視点と感性を持ち、代表作『枕草子』と『源氏物語』を生み出した文豪であったことは間違いありません。
現代の私達は、その作品が楽しめるだけでもありがたいです。
今回は、清少納言と紫式部の不仲説に焦点を当てて記事を書いてみました。
清少納言と紫式部、それぞれの生涯をまとめた記事もありますので、よろしければそちらも読んでください。
紫式部の詳しい記事はこちらから。

清少納言の生涯と枕草子についての記事もあります。

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